(集団的)自衛権の行使について考える (1)
「集団的自衛権」の行使について以下の4つの論点から考えてみたい。
その4つとは、① 日本国憲法の「国語問題」として考える ② 日本国憲法の「文脈」からj考える ③ 「立憲主義とは何か」から考える ④ 「歴史」から考える、の④点である。今日はさしあたって①②について自分の考えを述べてみる。
その際、前提として確認しておくべきことは、「個別的自衛権(戦争)」を容認しておいて「集団的自衛権(戦争)」に反対する論理は、その根拠が極めて薄いということである。実際には「自衛権」とからめた「国際貢献」の名目で自衛隊=日本軍が「アメリカの戦争」支援とその後始末のために海外派遣されており、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を厳密に区別することは不可能である。また、「個別的自衛権」=日本の戦争を認めておいて「集団的自衛権」=アメリカの戦争に「巻き込まれるのは御免だ」という論理は、はなはだ自己中心的な論理であり、「本質論」として考えても、国際問題を解決するにあたっての軍事力行使=戦争そのものを否定する論理とは次元を異にする議論である。「憲法問題」として考えるのであれば、日本国憲法が、国家の行為として、「自衛戦争」を含むあらゆる戦争を禁じているのか否か、という問題に帰着する。もちろん私は、憲法の「拡大解釈」を越えて「集団的自衛権」行使への道を開こうと暴走する安倍政権の危険性を軽視するものではない。
① 日本国憲法の「国語問題」として考える
憲法を単純な「国語問題」として考える必要性は「憲法」が国家の最高法規=国家の基本法であることから生まれる。これは第3の論点である「立憲主義とは何か」という問題とつながることであるが、憲法は国民と国家との約束ごとであるから、その解釈は、法律や政治の専門家のレベルではなく、一般国民的なレベル=誰にでもわかるしかたでなされなければならないということである。
憲法第9条の条文は以下の如くである
「日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する=第1項。前段の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない=第2項。
たとえば入試の国語問題で上記の憲法の条項をしめした後で、
イ この文は、国家の行為としてのあらゆる戦争を禁止している
ロ この文は、場合によっては国家は戦争を認めている
という選択肢があったら、受験生は迷うことなく「イ」を選択するだろう
条文には、「日本国民は戦争と武力の行使を永久に放棄する」とはっきり書いてあるからである
結論1 日本国憲法を「日本語」として解釈すれば、憲法はあらゆる戦争(もちろん自衛戦争も含む)を否定している
ところが「武力行使容認派」の人たちは、憲法条文の別の部分を持ちだして次のように主張するかもしれない
9条には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」と書いてあるじゃないか。だから憲法は国際秩序と国際平和を守るための戦争は認めているのだ、と。
同じことは「憲法前文」についても言われている
憲法前文はこう謳っている。「日本国民は・・諸国民との協和による成果と・・恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、・・この憲法を確定する。・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「われらはいずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」
彼らの主張は、「いずれの国家も、自国のことのみに専念してはならない」のだから、日本国は武力を行使してでも国際平和に貢献しなければならない。それが「国際社会において名誉ある地位を占め」ることである、ということになる。
② 日本国憲法を「文脈」から捉える
文章やデータには表面上相対立するかに見える要素が併存する場合が多い。それらを読み解いてその文章やデータが全体として表すものは何か、を把握する力が「読解力」である。読解力のない者は往々にして文章やデータの一部を取り出して全体を「理解」したつもりになって、その文章やデータが全体として「主張」する内容を見ることができない。なかにはそのことを知りながら、故意に「一部」によって「全体」を否定する論理を組み立てようとする者すらある。これはもっとも悪質である。
憲法9条をよく読めば、「正義と秩序を基調とする国際平和を希求」する、という部分の「主節」は「国際平和」にあり、その姿勢は「戦争を放棄する」という後段の部分を補強するために書かれており、この条文の本質が「戦争と武力行使の放棄」にあることは明らかである。
憲法前文の記述についても同様である
「いずれの国家も、自国のことのみに専念して」はならない、という記述はかつての日本が自国の利益を主張して「他国を無視して」無謀な侵略戦争を行ったことに対する反省から生まれたものであり、日本国民が希求すべき「国際社会における名誉ある地位」とは、「平和を愛する諸国民の公正と信義=人間相互の関係を支配する崇高な理想」に基づいて、武力を行使することなく「われらの安全と生存を保持しようと」努力する姿勢を通じてのみ到達することができる、と理解すべきものである。
安倍内閣や武力行使論者は、「憲法第9条」や「憲法前文」の一部の記述を取り上げて、日本国憲法の基本精神=平和主義=戦争をしない国家を否定しようとしている。彼らが一様に「読解力」のない者たちである、とは考えられない以上、この「憲法曲解」は故意になされたものであると考えざるを得ない。新聞報道によれば、彼らは「集団的自衛権の行使」を否定した過去の、自民党政権による「政府見解」の一部の文言を取り出してそれを自分たちの主張の論拠にさえしようとしているという。
安倍首相に読解力がないわけではないが、敢えて言えば彼には「恥じらい」というものがないのではないかと思う。私であれば、故意ではあっても「憲法」や「政府見解」をそのように「曲解」できる人間だと見られるだけで恥ずかしくてたまらない。「恥じらいの欠如」=生き方の問題は、「読解力の不足」=能力の問題以上に深刻である。
結論2:日本国憲法は、その文脈から見てもあらゆる武力行使=戦争を否定してる
稿を改めて③と④の論点について論じたい
その4つとは、① 日本国憲法の「国語問題」として考える ② 日本国憲法の「文脈」からj考える ③ 「立憲主義とは何か」から考える ④ 「歴史」から考える、の④点である。今日はさしあたって①②について自分の考えを述べてみる。
その際、前提として確認しておくべきことは、「個別的自衛権(戦争)」を容認しておいて「集団的自衛権(戦争)」に反対する論理は、その根拠が極めて薄いということである。実際には「自衛権」とからめた「国際貢献」の名目で自衛隊=日本軍が「アメリカの戦争」支援とその後始末のために海外派遣されており、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を厳密に区別することは不可能である。また、「個別的自衛権」=日本の戦争を認めておいて「集団的自衛権」=アメリカの戦争に「巻き込まれるのは御免だ」という論理は、はなはだ自己中心的な論理であり、「本質論」として考えても、国際問題を解決するにあたっての軍事力行使=戦争そのものを否定する論理とは次元を異にする議論である。「憲法問題」として考えるのであれば、日本国憲法が、国家の行為として、「自衛戦争」を含むあらゆる戦争を禁じているのか否か、という問題に帰着する。もちろん私は、憲法の「拡大解釈」を越えて「集団的自衛権」行使への道を開こうと暴走する安倍政権の危険性を軽視するものではない。
① 日本国憲法の「国語問題」として考える
憲法を単純な「国語問題」として考える必要性は「憲法」が国家の最高法規=国家の基本法であることから生まれる。これは第3の論点である「立憲主義とは何か」という問題とつながることであるが、憲法は国民と国家との約束ごとであるから、その解釈は、法律や政治の専門家のレベルではなく、一般国民的なレベル=誰にでもわかるしかたでなされなければならないということである。
憲法第9条の条文は以下の如くである
「日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する=第1項。前段の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない=第2項。
たとえば入試の国語問題で上記の憲法の条項をしめした後で、
イ この文は、国家の行為としてのあらゆる戦争を禁止している
ロ この文は、場合によっては国家は戦争を認めている
という選択肢があったら、受験生は迷うことなく「イ」を選択するだろう
条文には、「日本国民は戦争と武力の行使を永久に放棄する」とはっきり書いてあるからである
結論1 日本国憲法を「日本語」として解釈すれば、憲法はあらゆる戦争(もちろん自衛戦争も含む)を否定している
ところが「武力行使容認派」の人たちは、憲法条文の別の部分を持ちだして次のように主張するかもしれない
9条には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を希求し」と書いてあるじゃないか。だから憲法は国際秩序と国際平和を守るための戦争は認めているのだ、と。
同じことは「憲法前文」についても言われている
憲法前文はこう謳っている。「日本国民は・・諸国民との協和による成果と・・恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、・・この憲法を確定する。・・日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「われらはいずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」
彼らの主張は、「いずれの国家も、自国のことのみに専念してはならない」のだから、日本国は武力を行使してでも国際平和に貢献しなければならない。それが「国際社会において名誉ある地位を占め」ることである、ということになる。
② 日本国憲法を「文脈」から捉える
文章やデータには表面上相対立するかに見える要素が併存する場合が多い。それらを読み解いてその文章やデータが全体として表すものは何か、を把握する力が「読解力」である。読解力のない者は往々にして文章やデータの一部を取り出して全体を「理解」したつもりになって、その文章やデータが全体として「主張」する内容を見ることができない。なかにはそのことを知りながら、故意に「一部」によって「全体」を否定する論理を組み立てようとする者すらある。これはもっとも悪質である。
憲法9条をよく読めば、「正義と秩序を基調とする国際平和を希求」する、という部分の「主節」は「国際平和」にあり、その姿勢は「戦争を放棄する」という後段の部分を補強するために書かれており、この条文の本質が「戦争と武力行使の放棄」にあることは明らかである。
憲法前文の記述についても同様である
「いずれの国家も、自国のことのみに専念して」はならない、という記述はかつての日本が自国の利益を主張して「他国を無視して」無謀な侵略戦争を行ったことに対する反省から生まれたものであり、日本国民が希求すべき「国際社会における名誉ある地位」とは、「平和を愛する諸国民の公正と信義=人間相互の関係を支配する崇高な理想」に基づいて、武力を行使することなく「われらの安全と生存を保持しようと」努力する姿勢を通じてのみ到達することができる、と理解すべきものである。
安倍内閣や武力行使論者は、「憲法第9条」や「憲法前文」の一部の記述を取り上げて、日本国憲法の基本精神=平和主義=戦争をしない国家を否定しようとしている。彼らが一様に「読解力」のない者たちである、とは考えられない以上、この「憲法曲解」は故意になされたものであると考えざるを得ない。新聞報道によれば、彼らは「集団的自衛権の行使」を否定した過去の、自民党政権による「政府見解」の一部の文言を取り出してそれを自分たちの主張の論拠にさえしようとしているという。
安倍首相に読解力がないわけではないが、敢えて言えば彼には「恥じらい」というものがないのではないかと思う。私であれば、故意ではあっても「憲法」や「政府見解」をそのように「曲解」できる人間だと見られるだけで恥ずかしくてたまらない。「恥じらいの欠如」=生き方の問題は、「読解力の不足」=能力の問題以上に深刻である。
結論2:日本国憲法は、その文脈から見てもあらゆる武力行使=戦争を否定してる
稿を改めて③と④の論点について論じたい
この記事へのコメント
私は安倍政権の暴走を批判的に見ていますし、もちろん「日本軍」が「戦争」に出かけていくことも大反対です。
一方で、例えば「イスラム国」を巨大な犯罪集団と定義して、その「逮捕」のために国際社会が武装した警官を派遣する、となった場合、実際は戦争そのものでも、「戦争」ではなく「犯罪の取り締まり」である、と言い張ることも可能かと思います。実際、ビン・ラディンを討伐に行った米軍は「テロとの戦い」を掲げたわけですし。
日本も片足を突っ込んでいましたが、全面的な参加を否定できる根拠はあるのだろうか、とこの数年もやもやしています。
とりあえず、③と④をお待ちしています。